今は亡きロンブローゾの残した言葉
「天才は狂気だ。」
この言葉は多くの著名人にてんかんの症状が多かった事から生まれた言葉であるが何もてんかんだけに限らずその他の障害も才能の山と谷の山の部分に貢献しているのではないかと思う。
芸術の才能を持つ者を芸才と呼ぶ。
芸才はタレンテッドに他ならない。
私の古くからの友人であるN.H氏がタレンテッドである事から当ブログでも度々タレンテッドについて語ってきた。よって、タレンテッドについて今更深い説明は不要だろう。
さて、今回はタレンテッドがタレンテッドたる所以について迫っていきたい。
タレンテッドはギフテッドの一部であるが彼らはなんでも出来るような英才型のイメージの天才とは異なる。
彼らはディスクレシア、学習障害、その他の精神障害を持ち合わせているケースが多く、そうした障害から来る、欠けた部分を埋め合せるかのごとく何かに没頭していた結果、それが評価され天才と称されているパターンが多い。
ある天才画家は不安神経症で不安を和らげる為に絵を描き、ある天才音楽家は目が不自由だがその分耳が良く絶対音感を持っており視覚不自由から来る退屈しのぎのために音楽を聴いたり楽器を弾いたりするといった具合だ。
このように説明すれば「天才は狂気だ。」という言葉の意味が良く分かってもらえるだろう。
狂気とはまさに彼らの障害から来る発作を示しているのかもしれない。
もの凄く勉強ができて社会性も高い英才型のギフテッドが世間一般で語られる天才のイメージに最も近いが芸才型のギフテッド(タレンテッド)も天才なのである。
ただし英才型のようにスマートなイメージは無いだろう。なにせ障害が何かを行う際に邪魔となるからだ。
タレンテッドはピカソやダリ、モーツァルトなどといった芸術家をイメージしてもらえれば分かりやすい。
言葉は悪いが彼らは皆、狂気に満ち溢れている。
それは生い立ちやエピソードからも垣間見れる。
奇行が目立つと言っても良いだろう。
普通の人とは脳の構造が違うため、一風変わった考え方、思考回路を持っていると言えよう。
独特な感性を持っていて変わり者。
常識的な考え方が苦手で型やマニュアルにハマる事が出来ない訳だ。
彼らを普通という枠に留めようとしようものならば一生モノの反感を買う事を覚えておいたほうが良いだろう。
ギフテッドの光と影
英才型ギフテッドの光と影とは、賢すぎる光が強いゆえに周囲の出来なさ加減が理解しずらく、周囲から浮いてしまったり授業が退屈という影があり、芸才型ギフテッドは障害という影があるゆえにそれを埋める事を自然とこなしてしまう光がある。
ギフテッド・タレンテッドの衝動
ディスクレシアだが、1日に何枚もの絵を描くという日本では非常に珍しいタレンテッドの少年、濱口瑛士君はどこからとも無く沸き起こる衝動から絵を描く。
この衝動がギフテッド及びタレンテッドであるか否かを分かつ何かだと私は思っている。
画家になりたいが 描くのがめんどくさい。音楽家になりたいが演奏する気にならない。作家や脚本家になりたいが何を書けば良いのかわからない。発明家になりたいがアイデアが思い浮かばない。
こう言っている時点で才能が無いのだ。
学問的な才能を持つギフテッドが知識を渇望し、学びに没頭し、インプットを重ねるのであれば
芸術的才能を持つタレンテッドは表現する事を渇望し、絵画を描く事に没頭し、アウトプットを重ねるのだ。
才能ある彼らはどこからともなく湧き上がる何かに突き動かされているのである。
誰かと比べる事も無ければ、他人評価が欲しい訳でも無い。
ただ学びたいから学び、ただ描きたいから描く。
まさに衝動ありき。
そこに世間の目や評判が入る余地は全く無いのだ。
誰かに褒められたいとか、認められたいとか、お金が欲しいとか、そんな欲望は皆無なのである。
言い換えればお金、名声、ステータス、自己利益などの為に動くのでは無い。
当然、誰かと比較競争したりする事もない。
興味のおもむくままに湧き出る何かが彼らを突き動かしているのである。
その何かの正体がたとえ狂気であったとしても・・・
神様からの贈り物、ギフトである事には変わりは無い。